物事の本質に気づくには?

ボランティア学生との会話

先日、ボランティアに来た大学生と色々と話しました。
自分がビヨンドでやっている活動の背景や意味などについても。

ボランティアに来てくれていた学生は建築学部の二人で、古民家改修などに興味を持っていました。

自分は古民家改修をしたり、耕作放棄地を活用したりしていますが、それは目的ではなく、手段です。

『食べるものや寝るものを自分で確保できることを感じてもらえれば、ゆったりと人生について考えたりできるようになる』と言うのが自分が提供する体験の目的だったりします。

そんな会話の中で、学生からこんな質問を受けました。

「物事の本質に気付けるようにはどうなったらなれるのか?」

渋い質問ですね~。

哲学者思考のススメ

人間として生まれて生きるとき、その生きる意味について考えることはあまりないかもしれません。

『自分はなんのために生きてきたのか?』

特に困ることもなく生活できている場合には、こんな事考える必要も感じないでしょう。

しかし、実は上のような哲学者思考ができると非常にいいと思います。
自分の責任で行動できるようになるのです。意義があると思うことを自分の考えで行動していくようになるので、人のせいにしたり、外部要因のせいにしたりしなくなったりします。

周りの人が言うからと、盲目的にそれに従ったりしなくなります。
周りが皆、右に行こうとしていても、自分が左のほうがいいなと思ったら左に行けるようになれます。

周りが右に行こうとしているのは何故かを考えると、目的であるその原因を解決することを考えるようになり、そのためには右に行くかどうかとかはどうでも良くなります。解決方法として左のほうがいいなと思えば、素直にそうできるようになるのです。

人と違う意見を言うのはためらわれるという人もいますが、相手を否定して自分の価値観を押し付けるのとは違い、相手の目的遂行のための提案をするだけなので、自然に受け入れてもらえることがほとんどです。

PTAの会議で

数年前、自分が小学校のPTAの役員だったときにこんな事がありました。
小学一年生が学校から家に帰る時に車に轢かれる事故が起こり、それに対する対策を考えるために学校に役員たちが呼び出されたのです。

小さい子供が車に轢かれたのは見通しが悪い交差点だったので、子どもたちの通学路を地図を見ながら検討しようという案が出ました。

事故現場以外にも危なそうな交差点があったので、そこも通学路から外し、多少距離は長くなるが安全な交差点を通る道を通学路として使ってもらえるようにしようという議論がなされていました。

また、小さい子供は注意力も散漫なため、危険な交差点には子どもたちが慣れるまでの数カ月間は保護者を配置し、子どもたちを守ってあげよう!という風に決まりそうになっていました。

皆さんは、どう思うでしょうか?自然な流れでしょうか?

自分は、これらの議論を横でただ静かに聞いていました。
そして、違和感を感じていました。

そのまま黙っていると先の案で決まりそうだったので、自分の思いをその場の人達に聞いてもらいました。

自分の感覚からすると、「子どもたちは自分で身を守ることができないから大人が守ってあげなくてはならない」という前提がちょっともったいないと思ったのです。

子供の頃は確かによく転ぶし、いろいろなものをこぼしたりします。
でも、そのような経験を積んだからこそ、大人は危険を察知することができるようになり、安全を確保できるようになったのだと思います。

大人が過度に守ってしまうと、子どもたちは危険を察知したり、回避する能力を身につけることができなくなると思うのです。

通学路の特定の道を通学路として使うことを禁止したとして、しかも安全に渡れるかどうかは保護者がチェックしてくれるのだとしたら、、、

どこかに遊びに行ったりした際に見通しが悪い道でも気にせずに飛び出したりしてしまうと思うのです。

だから、子どもたちをただ危険から離すのではなく、危険を予知できるように学ぶ機会を逆に増やしてあげたらいいのではないかと提案しました。

いきなり車道でとかではなく、教室の廊下などでかんたんに練習はできるのですから。

『子どもたちを危険から離す』という皆の意見とは逆の意見だったのですが、説明したら皆にわかってもらえました。

「確かに、、自分が子供の頃は友達の家に行くのもわざわざ親が送迎とかしてなかったわ。危ないことなんかもいっぱいあったけど、だから今気づけるようになっている、、。」

本質を見るには

説明したら理解してもらえるのですから、実は皆、子どもたちに自ら危険に対処できるように練習する機会を持つことの重要性は知っていたはずです。

それなのに、その機会を取り上げるような案が採用されそうになったのは、最初に事故が起きたマップを見させられ、そこの場所の危険性についてが議題として用意されていたからでしょう。

「どこが安全でどこが危険か?」が議題になってしまうと、「ここが危険だ」という答えが出るのは当然でしょう。

しかし自分の場合、議題に答えることよりも「なぜ、自分たちはここに集まっているのか?」ということの方に興味を持ちます。

だから議題に答えることよりも、ただ問題を解決することだけを考えたりしやすいと思います。

大学などでもいろいろな課題が出されるでしょう。課題だけでなく、授業への出席もそうですね。

学校で課題を出されると、その課題を終わらせて提出することが目的となってしまいがちです。
でも、その課題を提出するためにその学校に通い始めたのでしょうか?

そんな哲学者思考をするようになると、授業や課題への見方がまるで変わってくるでしょう。

そんなことを大学生と話していました。

今月から開始予定の
やりたいこと実践講座
でも、その辺のところを話していきたいと思っています。