「幸せになれるかどうかは、結局、生まれた環境や周りの人間関係で決まるのではないか」
そんなふうに感じたことはないでしょうか。
恵まれた環境にいる人は幸せになりやすく、そうでない人は苦しみやすい。
もしそれが本当なら、この世はあまりにも不公平なのではないか。
私自身、かつてはそう思っていました。
そして、その疑問はだんだん深くなっていきました。
「悪とは何なのか?」
「なぜこの世には不平等があるのか?」
「そもそも、この世界は本当に間違っているのか?」
この記事では、私自身がその問いを突き詰めていった先で見えてきたこと、そして「心が変わると世界は変わる」ということについて、押しつけではなく、ひとつの体験として書いてみたいと思います。

幸せは環境で決まると思っていた
幸せになるか、不幸せになるか。
それは、周りの環境によって大きく変わるものだ。
以前の私は、そう思っていました。
どんな家庭に生まれるか。
どんな人と出会うか。
お金があるかどうか。
健康でいられるかどうか。
社会の仕組みが自分に合っているかどうか。
たしかに、環境の影響はあります。
苦しい環境にいれば、心も苦しくなりやすい。
安心できる場所があれば、人はのびのびしやすい。
それは否定できないことだと思います。
けれど、私はある時から、こんな疑問を持つようになりました。
「もし幸せが環境だけで決まるのだとしたら、この世はあまりにも不公平ではないか?」
恵まれた人は幸せになり、そうでない人は苦しむ。
そんな仕組みが本当に世界の本質なのだろうか。
そう考え始めると、私は立ち止まらざるを得なくなりました。
「悪」と「不平等」への疑問
私の中には、公正な世の中であってほしいという思いがありました。
できれば自分は悪ではなく、善でありたい。
人を傷つける側ではなく、助ける側でありたい。
正しいことを選べる人間でありたい。
おそらく、これは多くの人が自然に持つ感覚ではないかと思います。
けれど、その「善」や「悪」について考え続けていくと、だんだん簡単には言えなくなっていきました。
たとえば、殺しは悪だとします。
でも、人を殺してはいけないと言いながら、社会の中には死刑という制度があります。
人を殺してはいけないと言いながら、私たちは動物を殺して食べています。
では動物も殺してはいけないとしたら、植物はどうでしょうか。
植物も命だとするなら、私たちは何も食べられなくなってしまいます。
そして、そもそも食べなければ生きていけないような仕組みになっていること自体が、おかしいのではないか。
そんなところまで、考えが進んでいきました。
もちろん、これは誰かを責めたいわけではありません。
ただ、「善」と「悪」を単純に分けようとすると、どうしても矛盾が出てくるように感じたのです。
完璧な善などあるのだろうか
私は、善でありたいと思っていました。
でも、突き詰めていくと、完璧な善というものにはなり得ないのではないかと感じるようになりました。
生きているだけで、何かをいただいている。
何かの命や、誰かの働きや、自然の循環の上に、自分の生活が成り立っている。
そう考えると、自分だけが完全に清らかな場所に立つことはできない。
「自分は善で、あれは悪だ」と簡単に線を引くことは、もしかすると、人間の主観にすぎないのかもしれない。
そう思うようになりました。
もちろん、だから何をしてもいいという話ではありません。
人を傷つけないようにすること。
できるだけ誠実に生きること。
痛みを想像すること。
それらはとても大切です。
ただ同時に、「悪は絶対にあってはならないものだ」と考えた時、私はひとつの疑問にぶつかりました。
「この世は完璧なのではないか」という仮説
もし、この世界をつくった存在があるとしたら。
それを神と呼んでも、創造主と呼んでも、大いなる何かと呼んでもよいのですが、仮にその存在が完璧なのだとしたら。
その完璧な存在が、「あってはならないもの」を、わざわざこの世界の中につくるだろうか。
もし悪というものが、本当に「あってはならないもの」なのだとしたら、完璧な存在がそれを世界に含めるだろうか。
そう考えた時、私はひとつの仮説にたどり着きました。
もしかすると、私たちが悪と呼んでいるものは、人間の主観による呼び名なのではないか。
創造主のような大きな視点から見れば、それすらも何かの一部であり、世界全体としては欠けていないのではないか。
つまり、
「この世は完璧なのではないか?」
という仮説です。
これは、苦しみを軽く扱うという意味ではありません。傷つける行為を肯定したいわけではありません。
誰かの悲しみに対して「それも完璧だからいい」と言いたいわけでもありません。
ただ、それでもなお、出来事を「悪」とだけ決めつけることで見えなくなるものがあるのではないか、という問いが私の中に残ったのです。
本気で苦しみ、本気で疑問を持ち、本気でこの世界の不公平さに納得できなかったからこそ、この問いにたどり着いたのです。
人生をかけて、その仮説を実験してみた
この仮説に、私は希望を感じました。
もし本当にこの世が完璧なのだとしたら。
もし幸せや不幸せが、外側の環境だけで決まるものではないのだとしたら。
もし自分の心のあり方によって、世界の見え方が根本から変わるのだとしたら。
それは、人生をかけて確かめる価値があると思いました。
そこで私は、自分の人生を使って、この仮説が本当かどうかを実験することにしました。
その探求の始まりについては、以前の記事でも詳しく書いています。精神世界に最初から深く傾倒していたわけではなく、むしろ「怪しい」と感じるところから始まり、証拠を求めて本を読み、考え、瞑想なども試していった過程が書かれています。
参考記事:
『思考は現実化する』が本当かを突き詰めるため、仕事にも出ずに9年も真理探求をした結果、、、、『信じる力』が生まれ、神秘体験が繰り返されるようになった話 vol.1 ~懐疑からの始まり~
その探求の中で、私の中では少しずつ確信が育っていきました。
そしてある時、これまで握りしめていた不安が氷解するような感覚がありました。
もちろん、それを誰かに証明できるわけではありません。
けれど、私自身の内側では、
「ああ、やっぱり、この世界は完璧だったんだ…」
そう感じられたのです。
心が変わると、日常の見え方が変わる
では、心が変わると、世界はどう変わるのでしょうか。
目の前の出来事そのものが、魔法のように全部都合よく変わる。
そういう話として受け取られると、少し違うかもしれません。
最初に変わるのは、見え方です。
たとえば、以前ならイライラしていたような場面があります。
誰かが失礼な態度をとった。
予定通りに物事が進まなかった。
相手が思ったように動いてくれなかった。
以前なら、すぐに腹が立っていたかもしれません。
でも、心の見方が変わってくると、その出来事の奥にある背景が少し感じられるようになります。
「この人も余裕がなかったのかもしれない」
「この出来事にも、何か意味があるのかもしれない」
「自分の中の何かが反応しているのかもしれない」
そう見えるようになると、怒りだけで反応しなくなることがあります。
場合によっては、以前ならイライラしていた場面で、ふっと微笑んでしまうことさえあります。

もちろん、いつも完璧にそうできるわけではありません。
腹が立つこともあります。
落ち込むこともあります。
不安になることもあります。
けれど、その感情に飲み込まれる時間が少しずつ短くなる。
出来事に振り回されるだけではなく、その出来事を通して自分の心を見ることができるようになる。
それが、私にとっての「心が変わると世界が変わる」という実感のひとつです。
信じられないような出来事も起こることがある
心のあり方が変わることで、まるで奇跡のように感じる出来事が起こることがあります。
偶然とは思えない出会い。
必要なタイミングで必要なものがやってくる感覚。
自分の内側が変わった途端、外側の人間関係や流れが変わっていくような体験。
ただ、ここは体験を通してでないと、なかなか伝わりにくい部分でもあります。「そういう体験をする人もいるのだな」くらいに受け取ってもらえたらと思います。
恋をしたことがない人に、恋の感覚をどれだけ説明しても、なかなか伝わりません。
でも、一度恋をしてしまえば、長い説明や証拠がなくても「ああ、こういうことか」とわかる。
それに近いものがあるのだと思います。
証拠よりも、まず体験してみること
当初の私は、自分の仮説が正しいかどうかを知りたいと思っていました。
そして、もしそれが本当なら、人に伝えるためには証拠データが必要だとも思っていました。
一般的な考えとは違う。
証拠がなければ、人は耳を貸さないのではないか。
本気で取り組んではくれないのではないか。
そう思っていたのです。
けれど、探求を続ける中で、別の視点が生まれました。
証拠を集めて納得してもらうより、まず小さく体験してもらう方が早いのではないか。
たとえば、心の向け方を少し変えてみる。
反応する前に、自分の内側を見てみる。
嫌な出来事の中に、自分の思い込みを見つけてみる。
それだけでも、世界の見え方が少し変わることがあります。
大きな理論を信じる必要はありません。
「本当かどうか、少し試してみよう」くらいで十分です。
小さく試せることから始めてみる
心が変わると世界が変わる。
この言葉を、いきなり信じる必要はありません。
むしろ、すぐに信じ込もうとしなくてもよいと思います。
大切なのは、自分の生活の中で小さく確かめてみることです。
たとえば、今日こんなことを試してみてください。
何かにイラッとした時、すぐに相手を責める前に、一度だけ自分に聞いてみます。
「私は今、何に反応しているんだろう?」
「本当は、何をわかってほしかったんだろう?」
「この出来事は、私に何を見せてくれているんだろう?」
答えがすぐに出なくても大丈夫です。
ただ、外側だけを見るのではなく、自分の心にも目を向けてみる。
その小さな一歩から、見える世界が少しずつ変わっていくことがあります。
まとめ
幸せになるか、不幸せになるか。
それは環境だけで決まるものだと、私はかつて思っていました。
けれど、「悪とは何か」「不平等とは何か」「この世界は本当に間違っているのか」と問い続ける中で、少しずつ見方が変わっていきました。
完璧な善を目指そうとしても、人は生きているだけで何かをいただいています。
悪と善を単純に分けようとしても、そこには多くの矛盾があります。
その先で、私はひとつの仮説にたどり着きました。
この世は、もしかすると完璧なのではないか。
そして、その仮説を人生の中で実験してきました。
今、私が感じているのは、心が変わると、出来事の意味が変わり、相手の見え方が変わり、自分の人生の受け取り方が変わるということです。
世界を変えようとする前に、まず自分の心を少し見てみる。
そこから、世界は静かに変わり始めるのかもしれません。
