『好きな事しかしないが、それには情熱を傾ける』自分の性格を人事部の部長が認め、富士フイルム入社後に何でもありになった話~退社までの流れ

このstoryは『入社試験に落ちながら、面接官に思いをぶつけることで逆転合格!特別待遇(何してもいい!)にまでなった話』の後編です。

【前回までのあらすじ】
”好きな事しかしない”ヤスは大学時代、バスケットボールや語学学習(英語やドイツ語など)に明け暮れていた。化学が専攻だったのにもかかわらず、化学に関してはあまり勉強していなかった(その割に大学院まで行っていたが、、)。富士フイルムの入社試験で行われた化学の筆記試験に不合格したものの、「テストの点なんて関係ない。何を勉強するかもわかっていなかったうちに教科書を沢山覚えていた人が点数が高いだけでしょう?入社後に何をするかがわかれば自分で勉強できます。」と面接官に思いの丈をぶつけると、、、三人の面接官は皆、不合格を合格に切り替えた!
その話は人事部の部長の耳に入り、部長と直に会って話すことにより、遂には入社後に『特別待遇』を受けることにまでなったのだ、、、

それでは始まり、始まり~

目次



人事部の部長との面談から(よし、分かった!)

部長はハッキリと言った。
「よし、分かった!」
この時点で、部長は自分を受け入れ、活かそうと決意してくれたようだ。
そしてこのことは後に自分が退社を決めた時に初めて、部長から直接聞かされることになる、、、



配属先は最初から決まっている?

内定式で同期全員の名前を覚え、京都では同期となる関西組の交流会を開いたり、相変わらず私は自由にやっていた。

そして晴れて入社し、新人研修に突入~。
この新人研修が無茶苦茶面白くて!思い出すだけでも楽しくなっちゃうな~。
二週間くらい同期の仲間と同じ建物で暮らすというのが何よりも刺激的だったんだよね^^
ハッキリ言って研修の中身の方はあまり覚えていないんだけど、、、
朝から晩まで同世代の男女が集まるというのが面白かったんだよね~

あんなことや、こんなことまであったりして、、、(おっと、話がそれた(^_^;))
研修ではグループ活動があり、和を乱す人とか、タイプが合わない?とかで修羅場のようになっているグループもあったようだ。

休憩室で人間関係でもつれているグループの友達と話していると、急にそのグループの他の人が入ってきて言い合いが始まっちゃったりしてね(^_^;)
マッサージチェアに座りながら、「休憩どころか、逆にストレスで体が硬くなりそうだね、アハハ」なんて、側で見ていてちょっと面白かったくらい^^

それはさておき、笑いあり、涙ありの二週間を共に過ごした仲間たち、、、
研修の最後には配属先の決定という一大イベントが!
配属先は全国にあるため、ここで仲良しの皆と離ればなれになるか、また一緒になるかがわかるというわけなのだ。

一人ひとり、配属先が告げられるごとに歓声が起こったり、急に暗くなってしまったり、、(泣いている人達もいたな、、)
自分の配属先は静岡県榛原郡吉田町の吉田工場。

”え?吉田『工場』?!俺は研究者になるのではないのか?”

物凄い田舎で、配属が”吉田”と告げられると、周りからどよめきが起こるような場所だった。

配属先というのは、研修中に適性などを見て、更に面接も行う上で決定されるらしく、面接というのは割りと配属先の決定に重要な位置を占めるという話だった。

面接官;「室田くんは配属先に希望とかはあるの?」

ヤス;「バスケットボールが出来る体育館などがあると良いですね。あと、仕事が面白いところ!」

面接官;「まさにバッチリのところがあるよ。」

ヤス;「小田原だと、祖母も住んでいてそこからも通えるので良いと思っています。」

面接官;「おばあさん、介護などの必要があるのかな?」

ヤス;「いえ、そういう事ではありませんが」

面接官;「なら小田原でなくてもいいよね♪」

面接は配属先の決定に重要な位置を占めるという事前情報とは異なり、何だか自分の場合、最初から配属先がどうも決まっているようで、??な感じだった、、、



明らかに対応が違う?!(仕事の指令無し)

配属先である静岡の吉田工場内には実は研究所があった。(自分が知らなかっただけ)
そして、「まさにバッチリのところがあるよ」の言葉通り、工場内には体育館があり、自由にバスケットボールをしたりすることが出来る所だった!(自分が富士フイルムのバスケ部を復活させたんだよ^^)
更には、独身寮の前にはテニスコートまであり、かなり自分としては楽しそうな環境♪

吉田工場では印刷版を作っていた。
富士フイルムというとフイルムの印象が強かったのだが、直属の上司によると「成熟したフイルム事業よりも新しい印刷事業のほうが自由で面白い研究ができるよ!」との事。

そして自分に与えられた仕事というのは、、、
「これからDVDが世に出る。それに使われるブルーLDで書き込みができる印刷版が出来れば、暗室でなくても取り扱いの出来る印刷版が出来る事になる。更に、DVDのような汎用品に使われるようになればLD自体の値段は物凄く安くなるから、東南アジアなどのあまりお金を持っていない地域の人でも買えるような露光機とのセットにすれば、世界中に普及できることになるんだ!室田くん、それを作ってよ!

この様に非常にザックリとしたものだった、、、
しかし、かなり夢のある話で、その時点では世界のどこにもないタイプの印刷版との事。まだ誰も作ったことのない、夢の印刷版、、、それを自分自身が作ることができたら!うん、まさに自分の印刷版が世界中に飛んで行くことになるっていうことだな!

「良いですね!やりましょう!」

自分は印刷版の原理などは何も知らず、どのように作られているかもまるっきり知らなかったので、具体的にどのように進めればいいのかを上司に尋ねてみた。

それに対する答えは

「ここにこれまでに富士で作ってきた印刷版に関する研究資料があるから、それを読んでみて。読めばわかると思うから。」

そう言って私の机の上に文字通り山のように資料を積み上げたのだ!
印刷版のザックリとした説明だけはしてくれたけどね。

感光層に光が当たるとそこが固まる。
その後に現像すると固まっているところだけが残り、それ以外の部分は削ぎ落とされる。
残った感光層が像になり、そこにインクが乗れば、印刷することが出来る

なるほどなるほど、、、って、説明そんだけ?!

研究室では朝礼が終わると皆それぞれの化学実験を行うために居室を出て実験室に移動する。
同期のS君も上司に連れられてなにやら実験をしていた。
彼の場合は具体的な指示を受け、更に結果や考察についてもかなり教育を受けているようでした。

自分の場合は、まるっきり反対で、まったく具体的な指示がなかった、、
実験をするにも何をやっていいかもまるでわからない状態。実際、二ヶ月くらいだったかな?机上の資料を読むだけの日々が続いたのだ。
居室には部長と主任と自分しかいない、、、皆は実験室にいるのに自分だけは管理職の方々と共に居室に残る日々、、、

朝から晩まで資料を読んでいるだけで、途中にコックリコックリしちゃったりもしてね(^_^;)
別にサボっているつもりはないのだけど、”何だか一人だけサボっている雰囲気じゃない?この状況!”とはずっと感じていた。

同期のS君はかなり具体的な指導を受けているようだけど、自分とはえらく違うな~
どういうことなんだ?



こんなのありなの?!(何してもOK!)

二ヶ月ほどのリサーチを自分なりにこなし、なんとなくやることが見えてきた。
上司のSさんに「こんなのやってみたいんですけど」と告げると、「ふ~ん、やれば?」とのあっさりしてた回答^^

実際にやってみた結果、まるでダメダメだったと告げると、「せやろ?あかんと思ったわ~」とこれまたあっさり(^_^;)

その後もそんな感じで、自分がやりたいということを告げると「やれば?」。結果を見せると「せやろ?」の繰り返し。

実は、実験一つやるにもかなりの人手とお金がかかっていたりするのだ。
薬剤の注文だけでも数万円したり、実験を手伝ってくれる助手層の方々に作業を依頼し、更には実験器具を予約して使わせてもらう必要もある。

上司の方は、当時既に市場に出ていた印刷版を作った方で、かなり印刷版については詳しい人だった。
その方からすると、自分の提示する実験は提示した時点でかなり先が読めたようで、「こらアカンわ」と思ったりしていたらしい。
それにもかかわらず、出した指示は何故かすべて『GO!』だったのだ!

同期のS君はまさに手取り足取りの指導、訂正を受けているのに、自分はすべてGO!で指示も無し、、、
お金も人もバンバン使っちゃっているけど、こんなのでいいのか?
なんでこんなに違うんだ?単に上司の考え方の違いなのか?

当時、自分には、このあまりの違いの意味がまるっきりわからなかった。



俺が世界一の印刷版を作るんだ!

ま、そんな事はあまり気にせず、自分はマイペースでやっていた。
そして、
■ 何でも自由にやらせてもらっているという有り難さ
とりわけ、
■ 世界一の印刷版は自分が作るんだ!というワクワク感
が私を研究に没頭させた。

二年間は彼女なども作らない。ただ世界一の印刷版を作るぞ!

こう決意を固めた私は土、日も予定がない限り会社に行って文献調査などをしていた。
もちろん、残業とか休日出勤とかとは関係なく、ただ勝手に行っただけね^^

そして遂には出来てしまったのだ!!明るい所でも取り扱える印刷版が!安価なLDで書き込み可能な印刷版が!

これには上司も驚き、部長に自分の研究結果を持って駆け寄り、何やら真剣に話し合っていた。
そして今まで何も指示をしなかった上司が初めて私に指示を出した

「室田くん、この実験、もう一度やってもらえるかな?」

そしてこう打ち明けてくれたのだ。

「部長から何でもやらせてやりなさいと言われてたから、取り敢えずやらせとったけど、、やっぱり自分も印刷版のプロやし、わかんねんな、、。こんな実験アカンやろとかね。」

「実は、今回の実験もそう思っててんけどね、、でもできちゃったやん!いや~俺やったら絶対にこんな実験せんかったわ、、、。これは室田くんの発見やな!ほんま、やらせてみるもんなんやな~」

自分としては自分なりに出来ると思って毎回実験を繰り返していたのだが、印刷のプロからすると、「何でこんなことすんねん?」という感じだったようだ(^_^;)
しかし素人だからこその、思い込みのなさが良い結果を生むことになったのだ^^

”というか、いつも何も考えずに「やれば?」なんて、物凄い軽い回答ばかりしていたのは、部長(研究部の)から「何でもやらせろ」なんて言われていたのか、、
部長がそんなことを言ってくれていたなんて、、、、”



印刷業界のオリンピック(Drupa)に出場!

自分の開発した印刷版はなんと、印刷業界のオリンピックと呼ばれ、四年に一度ドイツで開催されるDrupaに富士フイルムの目玉商品として出品されることにまでなった^^
DSC00088

DSC00087
会場では印刷機大手のHeidelbergの方々が興味を持って話を聞きに来てくれたり、自分の携わった印刷版がオリンピックに出るなんてなかなか感慨深かったなぁ。
まさに研究者冥利に尽きるといったところ。
せっかくドイツに来たので、(有給をとって)ついでにベルギーやオランダまで周遊しちゃったりもしたんだよな、実は。
しかも、Drupa滞在の2日に対して、周遊は一週間ぐらいしていたかな(^_^;)
DSC00067

DSC00032


足の引っ張り合い、、、(戦略特許)

会社では、フラスコに薬剤を詰めて撹拌したり、解析したりする要素研究部門から始まり、長い間私にラブコールを送り続けてくれていたという開発部門に異動して、自分で作った印刷版を自ら商品化するという貴重な体験もさせてもらった。

更には、その商品をユーザーさん達に試用してもらう際に、東京の技術営業の方から同行を依頼されて何度かご一緒させていただくうちに、何故か営業本部からも「椅子を確保したから来てくれ!」とのお誘いが^^

結局、営業部門には移籍しなかったものの、会社では本当に色々な経験をさせてもらえ、本当に楽しかったな~。

しかしながら、この後に急速に仕事に対するやる気が失せていくことになっていった、、、

『世界一の印刷版を作る!』ことは物凄くエキサイティングであり、ワクワクしながら没頭した。
お金や人、機材などを自由に使わせてもらえたし、ユーザーさんからは「この印刷版イイね!早く商品化してね!」などと声を掛けてもらったりするのは本当に幸せなことだったのだ。更にプライベートでは、空いた時間には体育館でバスケットボールを自由にできたり、テニスコートではテニスし放題だったりと、本当に『こんな面白いことしながら給料なんかも貰えるの?』という夢の様な環境だったのだ。

しかし研究段階を終え、実際の商品化となると、段々と環境は変わって行った。

研究にかかったお金の回収や、利益の確保など、会社側のいろいろな都合もあるのだろう。
”確立した技術は特許で固めろ”という指示が出された。

「戦略特許」と呼ばれるもので、それには興味を持てなかったんだよな、、、

自分の技術を守るだけでなく、他人には使わせないようにしようとする動きだ。
これまた面白くないことに、ライバル会社も同じことをしてくるのだ、、

特許を出願すると権利獲得の前にその特許は公開される。その公開特許を見てライバル会社は富士の動向を知ることになる。
そしてその情報を読み解き、権利獲得の妨害を試みたりして来るのだ。そのための専門部隊までいると聞いた。

それを回避するためには、富士側も防御戦略をとる必要に迫られる。
そしてそれでも回避しきれない場合には、せっかく開発された印刷版も世に出すことはできなくなったり、ライバル会社と交換条件(クロスライセンスなど)で折り合いをつける必要が出てくるのだ。

富士フイルムのヒット商品『写ルンです』一つに、幾つの特許が出願されたか想像つくかな?なんと1200件なんだって!(新人研修の時に習った)
そして、そんなに特許を書きまくったけれども、やはり守りきれなかった。『撮りっきりコニカ』とか普通に商品化されていたからね^^

この足の引っ張り合い合戦に費やされる時間はかなりのものなのだ、、、

”お互いに協力し合えば、仕事なんて今の半分もしないで済むんじゃないのか?なぜそうしないんだろう、、”



退社を決意(起きている子供に会えない?!)

上司も代わり、いよいよ職場環境が変化してきた。
夜の23時に退社できれば早い方、、、そして朝は6時台に家を出るという過酷な日々が続いた。夜中の2時、3時なんていう事も頻繁にあった。

土日も出勤もしくは在宅ワークで特許を書いたりしていた。
土日も仕事するのは以前と変わらなかったのだが、以前とはモチベーションがまるっきり違った。
こうなると、まるっきり状況は変わってくるんだ。『ワクワク』は『苦しみ』に取って代わられた。

まさに、翼が折れたような状況だ。あんなに自由に飛び回っていた翼が、折れた途端に動きは重くなり、何より楽しくもなんともない、、

仕事に違和感を覚えた自分は、一緒に働いていた先輩の方に聞いてみた。

ヤス;「人生のための『仕事』というのならわかりますが、これだと『仕事』のための人生のような感じがしますが、先輩はどう思いますか?」

先輩;「そうだね~。起きている子供に会う事なんてないからね、、

ヤス;「えぇ?!それはかなりイマイチじゃないですか?」

この問に対する先輩の回答は今でもハッキリと覚えている、、、それだけ衝撃的だったのだ。

先輩;「まぁ、、しょうがないよ、、

「しょうがないよ」?!こんな一言で終わりにできるのか?そんな問題なのか?!

自分には当時まだ子供はいなかったが、結婚はしたばかりだった。
子供が出来たとして、起きている子供の顔が見られないなんて、、、そんなことは考えたくもないことだった。

しかし当時既に、まともな時間に帰宅して妻と夕食を共にするということすら出来てなかった。

妻は妻で、自分の帰りを”寝ずに待っていてあげたい”と思ってくれていたようで、いつ帰宅するかわからない私を、夕ごはんを作っていつも待っていてくれた。

深夜に帰宅すると、玄関で妻が倒れていたのを発見したこともある。
「おかえりなさい」を言おうと玄関で待ちながら、眠りに落ちてしまったようだ、、、

これを見て自分は”自分は一体何をやっているんだろう?!!”と強い疑問、強い感情が沸き起こった!

夜の2時頃に冷めた夕食を妻が温めなおしてくれ、それを食べていると、、、、
過度の睡眠不足から、食べながら寝てしまったりしたこともあった。

終には、自分で車の運転をして会社に通うこともできなくなったのだ。
運転中に起きていられないのだ(^_^;)

「こんな生活はおかしい!!」

強くそう思いながらも、どうしたら良いかを考える暇もない、、、そんな感じだった。

金曜日の夜9時に会議が行われ、そこでやることが決まるとそれから実験開始、、。
実験結果が出たらそれをまとめてFAXで報告せよとの上司のお言葉。
金曜の夜9時から始めると実験が終わるのは深夜の2~3時頃。そして後片付けや実験のまとめをすると朝になってしまう。
次の日の土曜日に予定があるかないかなどお構いなしに、このような指令が出される、、、

そんな時だった。自分が先輩に「こんな生活はオカシクないですか?」と聞いたのは。

それに対する衝撃の応え「しょうがないよ、、、」に大いなる違和感を覚えた自分は、”仕事なんかよりも、この問題に対する納得の行く自分なりの答えを得るほうがずっと重要だ!”と強く感じた。

しかし、、、チームで実験をしているために、自分が手を止めることは、共に実験をしている先輩にも後輩にも迷惑がかかることになるのであった。
これは避ける必要がある。

自分がやっていたのは化学実験なので、薬品を混ぜたら二時間撹拌などの待ち時間があったりした。
”まずは仕込み、撹拌時間に考えよう!” そう思った私は、まずは実験を開始した。

そしてようやく考える時間が取れるはずの撹拌のタイミングでは、”おぉ、そうだ。今のうちに洗い物とか片付けもしておかないと帰れなくなるぞ”と、またもや仕事を優先させてしまったのだ、、、

休憩室ではいつの間にか後輩が倒れて寝ている、、。
”彼も限界なんだな、、、何なんだ、この状況は、、”
とても起こす気にはなれなかった。
”この状況は明らかにおかしい!”

そんなことを思っているうちにもう撹拌時間は終了、、

結局、『重要な問題』に関しては考える時間をまるっきり持てないまま、仕事に追われてその日も終わってしまった、、

自分は考える時間やゆとりさえ無いというのは非常に良くない!とあまりにも強く感じたため、”こうなったら何が何でも自分のための考える時間を取るぞ!”と決意した。

上司に嫌な顔をされながらも、連休に有休を絡めて妻と共にトルコに旅行に出かけた。
”これで考えるための時間を取れるぞ!!携帯に電話もかかってこないしね~”

トルコではバス移動中に色々と考えた。
また、久々の旅行はかなり楽しく、妻も凄く喜んでくれた。

そうだ、、自分は人と共に喜びたいんだ!そういう生活がしたいんだ!

取り敢えずは上司に状況の改善を要望し、その返答が満足行くものでなければ辞めよう!

かなりあっさりと心は決まった。
これはもうほぼ退社の流れ。それが決まった後はかなり心は軽く、ただただ旅行を楽しんだのだった^^
そう、本当に心は軽くなったのだ!
トルコ語でケバブを注文したり、カッパドキアではしゃいだり♪
DSCF0228
本当に思い出に残る旅行となった。そして自分に素晴らしい時間、『自分の人生についてしっかりと考えるための時間』を与えてくれたのだ。



人事部の部長と再会(あぁ、そうだったのか、、)

帰国後、上司に自分の気持を伝えた。

■ 労働時間がおかしすぎること、
■ プライベートよりも仕事を優先しなくてはいけないという風潮に疑問を感じるという事、、

それに対する上司の回答はかなりズレたものだった、、、あまりのズレっぷりに面白いなこの人と思ったほど^^

上司の回答はこんな感じ;

「室田くん、うちの部署は凄い評価が高いんだよ。実はね、本部の方から援軍を三人送ると言われたんだよ。それを僕が断ったんだ。それなのに仕事が回っているってね♪」

自分のグループは実働三人だった。それに対して三人の援軍、、、。本部からしたら二倍以上の仕事量をしていると思ってくれていたみたいだ。

上司の回答はまさに企業戦士そのものの回答で、それはそれでアッパレ!と思ったな。
まぁ、もちろん、これを聞いて自分の辞意は固まったのだけどね。

辞意が本社に伝わると、入社時に私の話を熱心に聞いてくれた人事部の部長(Dさん)が、なんと静岡に飛んできてくれた!!

「室田くん、聞いたよ!何で辞めようとなんて思ったんだ?まずは飲みに行こう!」

Dさんに経緯を話すと、Dさんは優しくこう言ってくれた。

Dさん;「職場環境が気に入らないのであれば、配属先を変えても良い。どこにでも行かせてあげるよ!上司がひどいと言うのであれば、上司の処遇を考えてもいい。

ここまで自分のことを思ってくれているDさんの言葉には本当に胸が熱くなった。
しかしながら、”辞めたら何しよっかな~、自分で会社を創って大儲けして発展途上国に学校などを作りたいな!”などと既に盛り上がっていた自分としては、会社に残る線はもはや無かった、、

その事を伝えると、Dさんは
「良し!分かった!室田くんはそう言ったらそう行くんだろう。今日は飲もう!」
と元気に言ってくれた。

本当に気持ちのいい人だった。本当に自分のことを理解してくれ、本当に自分のことを想ってくれていたのだ、、
今でもこの事を思い出すと胸が熱くなる、、

そして、入社後に物凄く自由に研究をやらせてもらったこと、自分の作った印刷版が印刷業界のオリンピック(Drupa)にも出たことなどをDさんに報告した。

嬉しそうに聞いてくれていたDさんは、その時初めて自分に、自分の会社における待遇が実は特別であったことを話してくれた。

部長;「室田くんは仕事が楽しければ勝手にやると言ってたよね?吉田工場は面白かっただろう?」

ヤス;「Dさんが僕を吉田工場に配置してくれたんですか?」

部長;「そうだよ。つまらない仕事だと、室田くんは命令されてもやらないだろうけど、面白い仕事を与えてあげれば喜んでやってくれると思ってね^^」

ヤス;「そうだったんですか、、、。」

部長;「命令もされなかっただろう?」

ヤス;「かなり自由にやらせてもらいました。指令が何もなかったので意味がわからなかったくらいです。」

部長;「あっはっは!配属先の部長には「こんな新人が行くから、彼には自由にやらせてやってくれ」と伝えておいたんだよ。」

ヤス;「あぁ、、、そうだったんですか!そういえば上司の方も部長(研究部の)から”室田には何でもやらせろ”と言われていたと言っていました。部長がそんな事を言ってくれたのはDさんが部長に口添えしてくれていたからなんですね、、」

自分が新式の印刷版の作成技術を発見できたのは、上司の方が自由にやらせてくれたお陰だったんですよ!とDさんに伝えると、Dさんは喜んで話を聞いてくれた。

ヤス;「上司が自由にやらせてくれたのも、実はDさんのお陰だったんですね。自分はそのお陰で印刷版を作ることが出来て、今ではそれが世界に飛んでいるのだから、その点ではDさんにも恩返しは出来ましたかね^^」

退社時には多くの人に新しい人生への門出を祝ってもらった。
送別会では胴上げとかしてもらったな^^(記事topの写真)



気持ちにストレートに生きることの大切さを伝えよう!

自分は子供の頃から好きな事ばかりしてきた。
納得ができないものにはモチベーションが上がらないのは誰でも同じだと思う。
「しょうがない」というのは簡単だが、自分の場合には納得の行く説明を求めたり、自分で意味を考えたりした。
その上でやはり納得がいかない場合には、誰になんと言われてもしなかった。

幼稚園ではお遊技中に一人で砂場で遊んでいたりしたらしい(自分は覚えていないのだけと)。
小学校では授業中に海に遊びに行ったりしたこともあったな、友達を引き連れて、、、。
小学校の通信簿には、毎年毎年毎回同じ評価が載っていた。

『落ち着きが無い』

子供ながらに、これがあまりいい意味で使われて無いことはわかっていた。しかし自分としては、『落ち着いて』ただ人の言うことを聞くよりも、『自分でしっかりと考え、しっかりと自分の道を行く自分の生き方』は素晴らしいと思っていた。

そしてものすごく自分にとって有りがたかったのは、そのような自分をまるごと認めてくれた親の存在だった。

毎回通信簿に書かれている『落ち着きが無い』という文字を見てもただニッコリとしている母親には、本当に温かい気持ちにさせてもらったのだ。

その温かい気持ちのお陰で『自分はこのままで良い』と思うことが出来たのだ。

そして、その自由な性格のまま入社試験を受け、素直に自分の想いを伝えたら、それをまた理解してくれる人が現れたのだ。

面接官が自分を認めてくれ、そして人事部の部長(Dさん)がまた自分を認めてくれた。
そしてそのDさんの口添えを信じて配属先の部長が、そしてその部下である自分の上司もが自分を認めてくれたのだ。

それらの一つでも噛み合わなかったら、私はとてもサラリーマンには適合できなかっただろうし、印刷版も開発されていなかったかもしれない。

私はDさんの話を聞き、人の支えというものがどれだけ人の人生に影響を持つかということをシミジミと感じさせられた。
そして、自分が自分に素直に生きることが出来ていることに心から感謝した。

私が今このstoryを書いているのも、
『自分に素直に生きるということは本当に素晴らしいことなんだよ!!』
という事を伝えたいから
なのだ。

自分の親、Dさん、その他大勢の自分を認め、そして支えてくれた人の有り難さへの恩返しとして、今度は自分が他の多くの人々を、そのまま認め、支えてあげることができたらいいなと思っている。

そんな想いから、今は山梨県で人との繋がりの大切さ、自分の心に素直に生きることの大切さをを伝える自然塾、体験農園(ビヨンド自然塾)をやっている。

このstoryを読み、”子供にもっと自由にやらせてあげようかしら”とか、”もうちょっと部下には自由にやらせてあげようかな”などと想って頂けたら、それは私にとってこの上ない喜びです!

長文に付き合ってくれた皆様、お読み頂き有り難うございますm(_ _)m

~あとがき~

私は会社を辞め、『仕事とはなんだろう?何をして生きるのが幸せなんだろう?』という疑問に対する納得の行く答えを追求することにした。

まさかそのまま外に仕事にも出ずに9年も探求を続けることになるとは、その時は思いもしなかったが(^_^;)
そして、その探求が私の中の価値観、人生をガラリと変えることになったのだ!