石組みを通して得られる気づき

田んぼの石組みが壊れていたから直したかったというのはもちろんありますが、自分が石組みをやりたいと思ったのには、実はわりと沢山の意味がありました。

■眼の前の作業を見るか、その後のビジョンとして見るかの大きな違い
ビヨンドに来る人達には割りと伝えることが多いですが、両者には物凄い違いがあります。
単に『作業』として見る人は直ぐに疲れがちです。モチベーションも低くなる。対して、作業はしながらも、頭の中はその後のビジョンを見ている場合は、モチベーションが瀑上がりし、疲れも感じにくくなるのです。

体は思わず勝手に動き、気づくと微笑んでしまったりします。

心の持ち方一つでこんなにも変わるのですが、この心の差に気づいている人は思いの外少ないようです。

例えば、日常的に「うわー、最悪・・・」というような言葉を吐いているとしたら、まさに心の持ち方が自分にとって辛い形になっています。

自分自身で心の持ち方と実際の体の疲れやモチベーションなどの変化に注視してもらえたら良いなと思うのですが、石組みなどのような重労働で、しかも夏の暑い時期という辛さがまた自分としては素晴らしい気付きの機会だったなぁと思っています。

■知識を単に集めるのと自分の頭で考えることの違い
自分は石組みの方法を人に習ったこととかはありません。図書館で本は借りて読みましたが、あとは自分で実験して肌で感じていっただけです。わからないことがあればネットで調べたり、さらに実験を繰り返すことで解決していきます。
 自分がやったことない領域のことをやる場合には、まずは十分な知識を得てから出ないと始めない(不安)という人は多いと思います。その不安を払拭するために沢山の知識を得ようと努力はするのですが、実際に自分でやってみるとなかなかうまくいかないなんてケースは多くはないでしょうか?

それはごく当たり前だと思います。肌感覚で解決方法を得るための時間をあまりとっていないからです。
自転車に乗れない人が乗れるようになるケースを例えに使うとします。
自転車にのるために運転技術や安全確保の方法などの知識を得ることに沢山の時間を使う人と、知識はそれほどなくてもバンバン自転車に乗って転びながらでも乗り続けた人とでは、どちらが先に自転車に乗れるようになるでしょう?この答えは結構、明らかだと思います。

■小さな一歩が周りに勇気を与える
「凄い有能な人が凄いことをする」ことは素晴らしいことではありますが、凄くはないと思われる人が小さい一歩を踏み出すことの方が人々の心に響くことは多いです。

石組みのプロが石組みを完成させたとしても、周りの人は「流石はプロだ、頼んだら高いんだろうな。」という風に感じるかもしれません。
逆に、「あんた石組みなんかやったことあるのかい?」と思うような人が一生懸命試行錯誤しながら時間はかかりつつも石組みを粘り強く続けたとしたらどうでしょう?

応援したくなるかもしれないし、自分もできる気がしてきたと勇気を得てもらえるかもしれません。

実際、今回の石組み期間中、道行く人が応援してくれたり、興味深く見守ってくれていました。
自分は思わず「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画のシーンを思い出しました。
東京タワー建設中、街の人達が少しづつ出来上がっていく東京タワーを見守るシーンです。

■困難があるからこそ、乗り越えた先に充実感・自信が得られる
石組み作業などはたしかに重労働であり、やったこともない人にとっては「自分でやってみよう!」とはなかなか思えないかもしれません。でも、ちょっとハードルが高いほうが、できたときの喜びは大きかったりするものです。

以上、つらつらと書きましたが、自分は石組みを多くの人たちと一緒に進めながら、こんな思いを持っていたのでした。

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