カースト制度
自分がインドに旅行に行った時、話には聞いていたが、カースト制度というものが色濃く残っていた。
そしてコレに接した経験は、後に自分が「お金を得て海外に学校などを建設して、不平等を是正しよう!」と思ったきっかけの一つである。
結局はまるで違う方向に進むことになったんだけどね♪
誰もにチャンスを!
レストランで食事をしていた時、周りの人々が食べ残しカスや野菜カスなどを地面に投げ捨てていた。
自分からすると、「うわ~、散らかしちゃって大変だな、、、」なんでこんな事するのだろう?とお店の人を不憫に思った。(実はこれがインドの良さだったことが後で分かる)
食事中にフォークか何かを落としたので、それを拾う際、ついでに近くにあるゴミなども拾っていた。
そこに店員さんがやってきて言った。
「フォークは私が拾いますよ^^それが私の役目なのです。」
食事を済ませると、店員さんが持って行きやすいようにお皿を重ねたりしていると、店員さんが驚いたように口を開いた。
「こんな事をしてもらったのは初めてです!」
「日本では別に普通ですよ」と話すと、彼はカースト制度について説明をしてくれた。
「私は一番下の階層なので、汚いものを扱う仕事のみしか選ぶことが出来ません。掃除か洗濯のどちらかを選べと言われたので、自分は掃除を選びました。」
そう語った彼は、まだ中学生ぐらいの子供だった、、
「あまりに自分の中学時代と違う、、子供の頃からこんな制限を感じているのか?カースト制度って廃止されていたのではなかったのか?」
なんかそんな考えがグルグルと頭のなかを周ったのを覚えている。
彼とこんなことを話しながら、自分は自然と彼の片付けに手を貸していた。
彼は嬉しそうにこう言ってくれた。
「大丈夫です。これは私の仕事ですから^^でも、ありがとうございます!」
「カースト制度か、、、こんな子供にも制限をかけるなんて、、、」
自分の中で、”不平等を是正したい”という気持ちが沸き上がった瞬間だった、、、
凄い循環だ!?
インドでは『ポイ捨て』がかなり日常的に見られた。人力車みたいな形のものに乗った裕福そうな方々は、リンゴを食べながら、食べ終わるとポイッと道端に投げ捨てる。
「マナー悪く無いか?・・・」
私はそう思った。
が!これはこれで良かったんだ!ということに気づくことになった。
レストランでの食べ物カスのポイ捨ても同じである。
どういうことか説明する。
私はポイッと投げ捨てられたリンゴを見つめていた。
すると、ホウキを持った男性がススッと近づき、サササッと掃き始めた。
「この方も汚いものを扱うしか選択肢のない身分とされているんだろうな、、。皆がポイ捨てしなければ、こんな仕事は随分と減るだろうに、、、」
わたしはそう思いながらホウキで履いている男性を眺めていた。
男性は、サササッと掃きながらドンドンと移動していく。
あれ?どこに行くんだ?
不思議に思った私は彼の後を追った。
すると、、、
「・・・・」
そこにはすべてを物語るような光景が広がっていたのだ。
これまでのポイ捨ての意味がわかった。
男性がリンゴや他の食べ物カスを掃きながら向かった場所はゴミ捨て場だった。
ゴミがたんまりと山のように盛り上げられていた。
そしてそこには、神聖なものとされるウシが沢山集まり、それらのゴミを食べていた。
凄い平和な光景だった。
背景を知らないことで、相手を誤解してしまうことは物凄く多い。
どうしても好きになれないような人、その嫌われる原因となった行為にも実は隠された背景があったりする。
感情的になり、短絡的思考に陥ると、相手の立場になってものを考えたりはしなくなる。
くだらないことで喧嘩となり、仲直りさえできなくなってしまうのだ。
しかし、、その背景を見ることが出来れば、相手を理解しやすくなる。相手を理解できれば、相手を認めてあげることが出来る。
相手は認めてもらえれば、過剰な防御反応は示さないようになる。
こうしてお互いに仲良く、協力的になることが出来るのだ。
自分は現在、このような『心の大切さ』を教える活動をしているのだが、これもまたインドでの経験が一つ役立っているとも言える^^
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話を戻そう。
食べ物カスが結局は牛の餌になっている。これは無駄のないシステムにも思える。しかし自分はその時、こう思った。
「そのウシを食べれば、更に循環は回ると思うけどな~」
インドではウシが神聖なものと扱われているのを知っていたため、この提言は誰にもしなかったのは言うまでもない^^
支払いは金持ちが!
長距離バスで移動中、隣の席には裕福そうな方が座っていた。話していると、日本にも出張で行ったりするビジネスマンとの事で、日本とインドの文化の違いについての話などで盛り上がった。
休憩時間として、バスは道の駅のような場所に止まった。
朝ごはんのタイミングであり、自分はその紳士と共にレストランに入っていった。
食事を済ませ、自分の支払いをしようとすると、その紳士は軽く驚いたような顔をしていた。
そしてこんなことを言ったのだ!!
彼が言うには、インドでは『金持ちが払うのが当たり前』なんだそうだ。
なんてことだ!ドラッグディーラーの言っていたことは本当だったんだ!!
彼らのことを半分以上疑ってしまっていた自分は少し反省した(^_^;)
値段は顔を見て?!
インドでは革のサンダルを履いている人をよく見かけた。なかなか渋い感じでかっこいいな~と思い、靴屋さんに売っているかを見てみることにした。
早速、ローカルな靴屋さんに入ると、革のサンダルを発見。
「幾らなんだろう?」
面白いことに、田舎の商店では値札がついていないケースがかなり多かった。
店主は自分の顔をじ~っと見つめた後に口を開いた。
「◯◯ルピー(1500円位だったかな?)」
自分にはちょっと高く感じられた。日本で買ったらかなり高そうなサンダルではあったものの、インドでの1500円は高くないか?
かなり前のことなのでよく覚えていないのだが、当時、その辺りでよく出されていた昼ごはんの定食はだいたい100円ぐらいだったと思う。
”食べ物は必需品として安く提供されているとすると、日本で言ったら400円?その15倍だと6000円か。不思議ではないような気もするし、、、”
高かったら買わないだけなので、取り敢えず店主に話を聞いてみることにした。
「これ、安くならないの?」
店主は自分の顔をまたじっと見ている。自分がお金を払える人かどうかを見ているのだ。
そして1200円位(だったと思う)を提示してくれた。
自分は1000円未満でなければ買う気はなかったので、購入するとは言わずに、色々と違う話を切り出した。
そう、店からしたら迷惑な、ただ話をしたいだけの『冷やかし客』だったのだ。
しかし、インドの田舎の靴屋のおじさんからすると、外国から来たへんな若者の話は興味深かったようで話はかなり盛り上がり、なんと一時間半位話しまくっていたんじゃないかな?
そして、ついに友情が芽生えた♪国境を超えて理解し合った私たちは仲良しになったのだ。
靴屋の店主は「王様の靴があるぞ。履いてみるか?」と木の靴を私に履かせてくれた。
そしてこんなことを話してくれた。
「日本人だとわかれば、値段は上がる。これは当然だ。お前はネパール人にみえるから、あまり喋らなければ(言葉からバレなければ)安く買えるぞ。」
話し終わり、去ろうとすると、彼は私にこう言った。
「700円」
この話には続きがある。なんとこの料金はネパール料金とかではなく、『友達料金』だったみたいなのだ!
地元のインド人が利用するような長距離バスに乗っていた際、インド人の方が自分の購入したサンダルと似たようなものを履いていた。
「お~!お揃いですね^^ それ幾らでした?」
インド人の答えは「1200円(位)」だった、、、
品質が違うかもしれない。しかし、もしかしたら自分の靴のほうが高級だったかもしれない、、、
なんだかじんわりと胸が暖かくなった。
お金に対する基準を緩く!
インド旅行とは関係なく、その後に真理探求の道を突き進むことになったのだが、その際に『囚われの無い心』の重要性に深く気づいた。
何かに囚われ、制限を受けると、まるで身動きが取れなくなる。
それは経済活動もしかり、物理的な体もしかり、そして『心』もしかりなのだ!
自然農園ビヨンドを立ち上げた際も、野菜の料金などはあえてアバウトにしてみた。自然食品店では高く、直売所では安く、農園に来てくれた人にはタダで配ってしまったり、、、
- 近くに欲しがっている人がいるのに、「もっと高く売れるから」という理由で県外に売りに行ったり、、
- 売りに行ったものの、高すぎて売れなかったりしたら、、、
- 持って帰ってきた時には鮮度が落ちてシナシナだったりしたら、、、
もしこんな事が起こったとしたら、自分はあまり幸せを感じない。
それに、お金のことを考えなかったとしたら、きっともっとシンプルな選択をするだろう。
『喜んでくれる人に与えたい!』
このような考えに至るにあたっては、インドでの靴屋の店主との会話なども私に影響を与えてくれている♪
今では面白いことに、そのような学びを伝えるため、物語や自伝?などを書いていたりする。
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vol.4 ~困った人達~に続く、、、、
このストーリーで伝えたいこと
- 不平等を見せてもらうことで、平等の素晴らしさに気づくことが出来る。
- 経済をしっかり考えれば考えるほど、行動には制限が生まれる
- お互いを認め合い、理解し合えば制限は溶けていく